昭和後期あるある~「ひよ子」は東京土産ではなく、福岡(筑豊)発祥だと熱く語る。
銘菓「ひよ子」を東京土産だと思っている人に出会うと、昭和の九州人は「あれは元々、飯塚のお菓子ばい!」と全力で訂正する。
日本全国、どこへ行ってもその愛らしい姿を知らない人はいない銘菓「ひよ子」。多くの人が「東京を代表するお土産」だと思い込んでいるこのお菓子ですが、その認識、実は大きな間違いであることをご存知でしょうか。
昭和の後期、そして現代に至るまで、九州出身者、特に筑豊(飯塚)の人々が一度は直面する「ひよ子論争」。東京土産だと言い張る相手に対し、私たちは静かな、しかし確固たる情熱を持ってこう告げます。
「ひよ子はね、もともと飯塚(いいづか)のお菓子ばい!」
今回は、飯塚出身・在住の筆者が、事実に基づき「ひよ子」の真の発祥とその歴史を紐解きます。なぜひよ子は東京へと渡り、全国区の顔になったのか。昭和の九州人がこの話題に対してなぜこれほどまでに熱くなるのか。その裏側に隠された、筑豊のエネルギーと職人の魂の物語をお届けします。
1. 誰もが間違っている!「ひよ子」の故郷は福岡県飯塚市
まず、揺るぎない事実として断言します。名代「ひよ子」が誕生したのは、東京ではなく福岡県飯塚市です。
明治30年、飯塚で産声を上げた吉野堂
ひよ子の歴史は、明治30年(1897年)、福岡県飯塚市で菓子店「吉野堂」が創業したことに始まります。初代・石坂安次郎が飯塚の地で暖簾を掲げ、地域の皆さんに愛されるお菓子作りをスタートさせました。
そして、運命の「ひよ子」が誕生したのは大正元年(1912年)。二代目・石坂茂が、「もっと愛される、夢のあるお菓子を作りたい」という願いを込め、それまで一般的だった丸い饅頭の形を、愛らしい立体的なひよこの姿に変えたのです。これが世界で初めての立体形の菓子であり、飯塚から始まった「ひよ子」の伝説の幕開けでした。
筑豊のエネルギーが育んだ銘菓
当時の飯塚は、日本最大の炭鉱地帯である「筑豊炭田」の中心地として、凄まじい活気に溢れていました。過酷な労働に従事する炭鉱マンたちは、エネルギー源となる「甘いもの」をこよなく愛しました。飯塚に甘味文化が根付き、多くのお菓子屋さんが切磋琢磨した背景には、この炭鉱の歴史があります。ひよ子は、そんな筑豊の熱気の中で育まれ、地元の人々の「おやつ」や「手土産」として不動の地位を築いたのです。
2. なぜ「東京土産」だと勘違いされるようになったのか
これほどまでに「ひよ子=東京」というイメージが定着してしまったのには、昭和39年(1964年)のある大きな出来事が関係しています。
東京オリンピックと「東京ひよ子」の誕生
昭和30年代後半、ひよ子はすでに福岡市内に進出し、博多土産としても大成功を収めていました。しかし、三代目・石坂博はさらなる挑戦を企てます。「ひよ子を日本一のお菓子にしたい」。その舞台として選ばれたのが、アジア初のオリンピック開催に沸く「東京」でした。
昭和39年、東京オリンピックの開催に合わせて、埼玉県草加市に工場を設立し、東京一号店を上野駅にオープンさせました。当時、新幹線が開通し、人の往来が激増したタイミングで、上野駅や東京駅で「ひよ子」は爆発的な人気を博します。東北や北陸方面へ帰る人々が、目新しい「東京のお土産」としてひよ子を買い求めた結果、「ひよ子=東京の名物」という認識が全国へと広がっていったのです。
「東京ブランド」の戦略的成功
東京での成功は目覚ましく、昭和41年には株式会社東京ひよ子が設立されました。それ以来、半世紀以上にわたって東京の主要ターミナルでトップクラスの売り上げを誇り続けています。筑豊・飯塚で生まれたひよ子が、東京という大舞台で見事に「出世」した。これが、多くの人が抱く「東京土産」というイメージの正体です。
3. 昭和の九州人が「ひよ子発祥」を熱く語る理由
昭和の時代、お土産としてひよ子をもらった九州人が、相手が「これ、東京で人気の……」と言いかけた瞬間に被せるように訂正を入れるのは、もはや一種の伝統芸でした。
「出世した我が子」への誇りと一抹の寂しさ
九州人にとって、ひよ子は親戚の子供のような存在です。地元・飯塚で生まれ、博多で愛され、ついに東京へ渡って大成功した。その出世ぶりを誇らしく思う一方で、「自分たちの故郷のものだ」というアイデンティティだけは譲れないという、強い郷土愛があります。
「東京のものと思われとるけど、本当は筑豊の誇りばい!」
この言葉には、かつて石炭で日本の近代化を支えた筑豊の人々のプライドが込められています。自分たちの土地が生んだ素晴らしい文化が、中央(東京)のものとして上書きされてしまうことへの、ささやかな、しかし熱い抵抗なのです。
飯塚本店の存在感
飯塚市本町にある「ひよ子本舗吉野堂 飯塚本店」。ここを訪れると、今でも発祥の地としての威厳を感じることができます。昭和の九州人は、この本店があることを知っているからこそ、東京土産だと言われると「いやいや、本店は飯塚にあるとよ」と、事実を突きつけずにはいられないのです。
4. 筑豊・飯塚が誇る「シュガーロード」の歴史
ひよ子がこれほどまでに高い品質と愛される形を持って生まれたのは、偶然ではありません。飯塚には、お菓子作りにおける深い歴史的背景があります。
砂糖の道、シュガーロード
江戸時代、長崎の出島に荷揚げされた砂糖は、小倉へと続く「長崎街道」を通って運ばれました。この街道沿いには砂糖が豊富に流通したため、独自の菓子文化が花開きました。これが「シュガーロード」です。
飯塚はこの街道の重要な宿場町(飯塚宿)でした。砂糖の入手が容易だったことに加え、前述した炭鉱の発展により、疲労回復に甘いものを求める需要が爆発的に増えました。これにより、飯塚には「ひよ子」以外にも、多くの和菓子店や銘菓が誕生したのです。
職人気質と創意工夫
飯塚の職人たちは、非常に研究熱心でした。ひよ子のあの独特な曲線美、焼き色、そして滑らかな餡の質感。これらは、シュガーロードの歴史が育んだ高い技術力と、炭鉱の荒くれ者たちをも納得させる本物の味を追求した結果、生まれたものです。ひよ子の形が「立体」であることは、当時の菓子業界では常識破りの挑戦でした。そのフロンティアスピリットこそが、飯塚という土地が持つパワーなのです。
5. ひよ子をめぐる「福岡・東京」の棲み分けと絆
現在、「ひよ子」は福岡の株式会社ひよ子と、東京の株式会社東京ひよ子という別法人が運営していますが、その源流は一つ、飯塚の吉野堂です。
どちらも本物、しかしルーツは飯塚
福岡で売られているひよ子も、東京で売られているひよ子も、同じ魂を持っています。しかし、よく見るとパッケージや、期間限定のバリエーションに違いがあることもあります。
- 福岡のひよ子: 故郷を守る「元祖」としての風格。
- 東京のひよ子: 流行の発信地で愛される「洗練」された顔。
九州人が「飯塚が発祥だ」と語ることは、東京のひよ子を否定することではありません。むしろ、これほどまでに全国で愛される存在にまで育て上げた東京の方々への感謝と、それ以上に「その種を蒔いたのは俺たちの街だ」という強い連帯感と誇りの表明なのです。
6. まとめ:ひよ子の瞳の先には、筑豊のボタ山が見えている
昭和の時代から現在まで、ひよ子を見るたびに飯塚の人は胸を張ります。 「あれは飯塚のお菓子ばい」
その言葉の裏には、かつて炭鉱で賑わった街の記憶、シュガーロードを通って運ばれた砂糖の甘い香り、そして二代目・石坂茂が夢見た「子供たちを笑顔にするお菓子」への情熱が詰まっています。
東京土産としてひよ子を手にする機会があったなら、どうか一度、その愛らしい顔をじっくり見てみてください。その瞳が最初に見つめていたのは、東京のビル群ではなく、筑豊の空にそびえるボタ山(炭鉱の廃石が積み上がった山)だったのです。
飯塚出身、在住の筆者は、これからもひよ子を愛し、そして「ひよ子は飯塚が発祥である」という事実を、熱く、熱く語り続けていきます。
昭和「ひよ子論争」あるある総仕上げ:
- 東京の友人に「ひよ子美味しいよね」と言われると、嬉しさ半分、訂正したい欲求半分で、結局「実は飯塚が発祥でね……」と歴史講釈を始めてしまい、相手をポカンとさせる。
- 飯塚本店でしか買えない限定品や、発祥の地ならではの空気感に触れると、謎の優越感に浸ってしまう。
- どこから食べるか論争(頭からか、お尻からか)になっても、最終的には「どこから食べても飯塚の味たい」とまとめてしまう。
ひよ子の甘い餡の中に溶け込んでいるのは、筑豊・飯塚という土地が持つ不屈の精神と温かな愛情です。次にひよ子を頬張るとき、その優しい甘さと共に、遠い九州の、石炭の歴史が作った街の風景を思い浮かべていただければ、これほど嬉しいことはありません。
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